「写真は人を感動させることができる」という事を知ったのが、カメラの世界を目指すきっかけだったと語る、山田一仁さん。65歳となった今なお、世界の第一線でカメラを構えるフォトジャーナリストだ。
高校生までを各務原で過ごした山田さんは、中学2年生の時、本屋で見かけた故・沢田教一氏のベトナム戦争の写真を見て感銘を受け、自分も人を感動させる写真を撮りたいという夢を持った。大学卒業後、出版会社へ入社。1984年のロサンゼルスオリンピック取材が、山田さんの価値観を変えたという。
「当時、日本のカメラマンは、会社に求められた写真は撮るけど、それ以外のチャンスに興味を持たない人も多かった。海外のカメラマンはフリーが大半。自分が一番いい写真を撮ってやるという気迫や執念に、強いカルチャーショックを受けた。」
ロサンゼルスオリンピックの経験をきっかけに、山田さんは会社を退職。イギリスで語学を学びながらフォトジャーナリストとして本格始動した。
現地では、社会情勢を追った取材や欧州サッカーなどを撮影。ベルリンの壁崩壊やルーマニア革命、旧ソ連で発生したクーデター未遂事件を追ったり、イングランドプレミアリーグでは日本人カメラマン初のオフィシャルライセンスを獲得するなど、その功績は多岐に渡る。
「90年代、旧ソ連の取材で現地のアパートを間借りして住んだことがあってね。家賃は月100ドル程度だった。それも3食付きで。日本円で10,000円ちょっとの金額でそこまでしてくれるのかと驚いた。でももっと驚いたのが、当時、現地通訳の1日報酬額が300ドルで、闇レートでルーブルに交換すると平均年収になると聞いた時。アパート代がたった100ドルと思っていたが、向こうからしたら年収の1/3にもなる額だった。」
現地に行かなければ分からない東側諸国の実態や価値観の違いは、大きなカルチャーショックだったと振り返る。「現地で本物を見たかった。そして実情を知った以上、その先を見届けたいと思った。」旧ソ連には10年ほど滞在して取材を続けている。
「現地で見たい」「本物を見たい」そこに探究心や挑戦心、活動の原動力を感じた。
もう一つ感じたのは、粘り強さだ。
当時の東欧諸国や紛争地での取材は容易ではない。いつ起きるか分からない事案に対応する。飛行機がダメなら陸路で走る。とにかくできることは全てやるのだ。
欧州サッカークラブの頂点を決めるUEFAチャンピオンズリーグでは、予選の試合撮影から入り、決勝の舞台に足を踏み入れるまでに5年の積み重ねがあったという。「口先だけ撮りたいって言ってもダメ。たとえ会場に入れなくても自分はスタジアム前で準備できています、ってアピールしなきゃ。重要な試合なら開始の数時間前に入って、チームの状況や監督の力量、選手のコンディションから、どんな展開になるか、誰がいつ得点を挙げるか、ゴールを決めた選手はどこへ向かうのかをシミュレーションする。そうやって撮影位置を決めるんだよ。」そんな山田さんの真摯で粘り強い姿勢に、多くのリーグやクラブが心を開いていったのだろう。
取材とは、たまたま良い写真が撮れる場所に居合わせるのではなく、そこに居合わせるように努力をすることなのだと気づかされる。
その現場、その人物の一番良い瞬間を切り取るために努力する。ときには、危険に身をさらしたり、無駄足になったり、何年もの歳月を要するかもしれない。それでも経験や下積みを重ね、情報を集め、思考を巡らせること。その一つ一つの積み上げが写真として形になり、社会情勢の緊迫感を伝え、選手の心情や躍動感を映す。
各務原の地で写真を通して感動を覚えた山田さんが、世界を駆け、写真を通して感動を伝えていく。山田さんの撮る写真は、多くの人にメッセージを伝え続けるだろう。
安田 佳祐K.YASUDA_OFK
各務原生まれ・在住。カメラ練習中で、子どもと一緒に出掛けては写真を撮っています。カメラを構えると、住み慣れたまちでも知らない風景や場所が多いことに気づかされます。同じように、記事を通してまちの新しい発見を伝えられたら嬉しいです。